・『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『必生(ひっせい) 闘う仏教』佐々井秀嶺
・『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
・勝ちを目指す人生
・『反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」』草薙龍瞬
「勝ちをめざすのもかんちがいです」と言ったら、驚いて卒倒する人もいるかもしれません。それくらい世の中においては、勝利を美徳とします。世の中には、高収入や高学歴、高い地位や美しい容姿といった「これを手に入れれば認められる」という価値・記号がありますね。それらを手に入れることを「勝利」と考え、人と比較して、どちらが、どの価値を、どれだけ多く手に入れたか、で勝ちか負けかを判断します。社会には、たしかにそういう考え方が存在します。
ここで思いだすのは、「私の人生は闘いの連続だ」と語っていたというある人のことです。超一流高校→超一流大学→超一流官庁という俗に言う日本のエリートーコースを経て投資顧問となり巨額の利ザヤを稼ぎ出した人です。
この人は、日本でいう「勝ち組」の人かもしれません。たしかに世俗の価値観でいう「勝利」をたくさん手に入れてきた人だと思います。
しかし、ブッダの思考法では、こういう見方をします。
1.その考え方で、かつて心底満足できたことがあったか
2.その考え方で、現在満足しているか。
3.その考え方で、将来満足が得られる可能性があるか
もし三つそろってノーだと言うなら、その考え方は間違っている可能性があります。なぜなら自分自身が満足できない生き方というのは、他人がいくら認めようと、自分にとっての幸福には当たらないからです。
【『ブッダの思考法でアタマすっきり! 消したくても消えない「雑念」がスーッと消える本』くさなぎ龍瞬〈りゅうしゅん〉(大和出版、2012年)】
『イズムの罪〜「勝負主義」と「現証主義」について』関連テキスト。
日蓮遺文で「勝負」は五箇所に出てくる。
「同延暦二十一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学勤操・長耀等の十四人を召し合わせて勝負を決断す」
「抑そも俗諦・真諦之中には勝負を以て詮と為し、世間・出世とも甲乙を以て先と為すか」
「而れども漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるかのゆへにや」
「何事も両方を召し合わせてこそ勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれば日蓮一人に限りて諸僧等に召し合わせずして大科に行はるゝやらん」
「結句は勝負を決せざらむ外は此の災難止み難かるべし」
いずれも、「法門の勝劣を明らかにする」意図が見える。つまり、日蓮が言うところの「勝負」は実は教相判釈という意味なのだ。「天台智顗(ちぎ)の五時八教ルールに基づいたディベートをやろうぜ」という日蓮の主張に悟りに特有の静けさは見られない。
むしろ日蓮を評価するとすれば、既に何度も書いてきた通り、近現代と同じ思考の枠組みを鎌倉時代に持ち得たことだろう。比較検討を通してよりよいものを追求する姿勢は、どこか進化論にすら通じる抽象度の高さを感じる。
創価学会が大好きな「仏法は勝負」だが、かつて私が研鑚板で「先とし」の解説をしたところ、よく知らない学会員から「第一義という意味だと思います」との反論があった。馬鹿丸出しである。普通であれば、知らないことを教えてもらえば蒙(もう)が啓(ひら)いて視界が明るくなるものだが、わざわざ暗い過去の方向に固執するのだから。かような有象無象はセクト(カルト)に最も多いタイプ(型)であろう。勝手にしろ、だ。
個人的には道元やクリシュナムルティであれば、易々(やすやす)と日蓮を論破できたと思う。大体、大乗非仏説を示されてしまえばアウトだろう。
そんな日蓮を信奉する創価学会がつくった創価高校や関西創価高校がディベート甲子園で活躍するのも当然の成り行きか。個人的には10代でそのような詭弁術を身につけるのは大変危険なことで、詐(いつわ)り多き大人になるような気がするよ。
