斧節

混ぜるな危険

二人の会長候補

『創価学会を斬る この日本をどうする2』藤原弘達 1969年
『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年

 ・比木三九男
 ・八王子市を創価市にしようという目論見
 ・池田への付け届け運動を奨励した長谷川重夫
 ・上田夫妻の悩み
 ・『私の履歴書』を代作した松岡資
 ・二人の会長候補
 ・野崎兄弟

『池田大作 幻想の野望 小説『人間革命』批判』七里和乗 1994年

 後継会長の有力候補は、教学担当理事の石田次男と事業担当で参謀室長の池田大作の二人。小泉理事長は「二人とも、30代の前半で若すぎる。牧口会長から戸田会長登場まで7年間の空白期があった。3代会長を決めるまでも7年間をおき、誰が会長に最もふさわしいかを皆で考えよう」と主張した。
 結果的には、この主張が小泉にとって後々の大変なマイナス材料として働いた。
 第3代会長就任に意欲を燃やす池田が「オレの仲人のくせに会長就任の邪魔をするのか」と激しく反発したのである。
 池田はまず理事の上に総務というポストを作り、自分でさっさと就任した。ライバルの石田が「会長になるなんて、まっぴらご免だ」と“我が道”を行くのをよいことに、池田は青年部を中心に多数派工作を展開。35年5月3日、さっさと念願の第3代会長の座についた。
 小泉にとっては、それから28年間、63年11月、失意のうちに逝去するまで、悪夢のような日々が続いた。
 池田から、事あるごとにいびり抜かれたのである。大作の先輩いびりは、手を替え品を替えして、すさまじいほどに繰り返し行なわれた。中でもひどかったのが小泉、和泉、辻3人への個人攻撃。3人は“いびられ3代表”と化した。


【『創価学会公明党 スキャンダル・ウォッチング これでもあなたは信じますか』内藤国夫〈ないとう・くにお〉(日新報道、1989年)】

 小泉・辻・原島宏治が有名な「蒲田(かまた)の三羽烏」である。原島が小泉を折伏し、小泉が辻を折伏した。ここに原島の名前は挙がっていない。しかし、池田会長体制で理事長となり、公明党の初代委員長を務めた後、すべての役職を解任されたように記憶している。尚、和泉がいびられた事実を私は知らない。

 石田次男に対して池田は昭和50年代に至るまで「石田先生」と呼んでいた。

 私が初めて池田のスピーチを直接聞いたのは創価同窓の集いだったが、池田が柏原ヤスを呼び捨てにし、立たせた上で嫌味を言っていた姿をよく覚えている。因みに柏原は池田よりも11歳年長である。

 池田は会長就任後、煙たい戸田門下生を全員公明党へ送り込んだ。その間に体制の地盤を築いたのだろう。昭和37年(1962年)には300万世帯を達成しており、安保闘争の強風を尻目に着々と勢力拡大を成し遂げていた。

 昭和40年(1965年)には3日間の正本堂供養で355億円を集金した。これで池田に逆らう者は存在しなくなった。「正本堂御供養は、創価学会が天下を盗る瑞相である」と池田は理事会で心情を吐露している。燃え盛る野心が伝わってくる。