斧節

混ぜるな危険

野崎兄弟

『創価学会を斬る この日本をどうする2』藤原弘達 1969年
『池田大作先生への手紙 私の自己批判をこめて』原島嵩 1980年

 ・比木三九男
 ・八王子市を創価市にしようという目論見
 ・池田への付け届け運動を奨励した長谷川重夫
 ・上田夫妻の悩み
 ・『私の履歴書』を代作した松岡資
 ・二人の会長候補
 ・野崎兄弟

『池田大作 幻想の野望 小説『人間革命』批判』七里和乗 1994年

(野崎勲の)兄の至亮(よしゆき)は、特別書籍のメンバーに加わり、婦人部の教学部長を務め、婦人部内に至亮ファンをふやした。『法華経を語る』と題する池田著作物を始め、多数の代作を引き受けた。一時は、弟に大幅に遅れて“池田病”の重症患者になったかの感じがした。
 しかし、至亮の心中深くには池田批判の思いが秘められており、先輩の原島嵩教学部長が師匠批判に踏み切った際には、資料持ち出しや池田批判文書の作成に協力した事実もある。心底、池田病に酔える弟と違って、兄の方は酔ったフリをするだけ。師匠の池田は、その辺りの複雑な心境を見抜いており、聖教新聞社の一家、満座の前で至亮を怒鳴りつけたり、教学研究室という窓際族ポストに追いやったりして、警戒心を解いていない。


【『創価学会公明党 スキャンダル・ウォッチング これでもあなたは信じますか』内藤国夫〈ないとう・くにお〉(日新報道、1989年)】

 二十歳(はたち)の頃のことだが、私は「十界互具」が理解できずに苦しんだ。1~2年にわたって思索したが、なぜ十界の中に十界が必要なのかが理解できなかった。様々な幹部に質問したが、「そういうものだ」との答えしか返ってこなかった。我々は例えば十界は説明するが互具を語ることはない。「こういう生命状態は畜生界の中の縁覚界だね」なんて言ってる学会員は一人もいない。「なぜ一念三百じゃ駄目なんだ? 三百世間で十分ではないか?」というのが私の疑問だった。

 それを晴らしてくれたのが野崎至亮の論文だった。目から鱗が落ちた。確か『教学研究』に掲載された論文だったと記憶している。あるいは『東洋哲学研究』だったかもしれない。若き日の私にとって野崎は恩人であった。

 野崎勲は言わずと知れた文化祭運動を牽引した人物で、存命であれば原田の次の会長に収まっていたことだろう。61歳で急逝した。

 細井vs.池田紛争の折、池田に反旗を翻そうとした幹部は予想以上に存在した。『忘れ得ぬ同志』に書かれている全員がそうだという説まである。

 尚、誤解している向きが多いと思われるが、原島は「資料持ち出し」の時点では除名になっていない。池田は一旦許しているのだ。